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ライオンが吼える

第1章 外から見た長岡 よそ者から見た長岡

 長岡に来て11年が経った。早いものである。まさに「光陰矢の如し」である。人から聞いたもの、いろいろ情報はあったがやはり11年経って本当の意味で私が感じたものは別であった。

 越後人はなかなか火が付かない?

 自分から何事にも積極さに欠ける。

 高校でも大学でも進学率が悪く教育に金をかけない。

 夢のない人が多く、その日暮らし的発想しか出て来ない。

 気候的影響かもしれぬが、進歩的でなく創造力に欠ける。

 冬の雪が人間の性格を根暗にしてる。その他。

いろいろ否定的なことがどんどん考えられるが、結論は何なんだろう?

 1つは米である。食える米があるからハングリー精神が育たない。会社勤めをしている人でも家で米作りをし、5月の連休は田植えになる。この安心安堵感がより進歩的な考え方への移行を阻害しているように感じてならない。2つ目は教育への理解度が薄いことである。教育次第ではいろいろな人材育成にかなり寄与すること、隠れた人材の掘り起こしが出来ることが分かっていない気がする。教育を通じて人間が夢を持ち、そしてその実現に向かう情熱は無限の可能性を秘めていることを分かっていない。教育、真の教育、生きた教育を越後人に徹底してもらいたい。住めば都の長岡で、微力ながら夢を持つ人、創造力のある人物が輩出するよう力になれればと毎日考えている。

第2章 夢を持つこと

 「夢」、これほど人間の人生を変える大きな要因はないと思う。私の場合を紹介しよう。

 片田舎の、ほんの田舎の小学生だった私をお袋は、町の役場にでも勤められたらと思っていたようだ。事件は小学6年生の時の7月7日、つまり七夕の日に起きた。

 1週間後から英語のスパルタ教育が始まった。人生が一変した。出来ないと怒られる恐怖心から、眠い目をこすりながら予習復習に全力を投入した。はっと気がつくと小学生で中学1年生の教科書が終っており、中学1年で中学の教科書は終わり、高校の教科書に入っていった。枕元に英語の辞書、便所にも、自転車の中にも、ズボンのポケットの中にも、周りが英語の世界に埋まっていった。もちろん英語の成績はいつも一番百点だった。中学3年で英英辞典を使い始めていた。

 「英語 アメリカ アメリカ アメリカは一体どんな国なんだろう?」と考え始め、アメリカへ行くことが夢になった。この夢の実現の為ならばどんなことでも辛抱し、犠牲にしても必ず実行する。勇気ある英断をして、そのために必至になって計画から実現への青写真を描き始めた。

 他のことは一切目に入らず、聞く耳持たず、ただただアメリカであった。夢が与える人間の行動力には、恐ろしいほどの効果をもたらすのであった。親からの援助は一切なしでアルバイトの連続でお金を貯め、ただただアメリカであった。大学3年で4年分の授業を終了し、ついにアメリカ行きが実現したのであった。大地アメリカ、中国語で「美国」と書くあのアメリカの地に第一歩を印したのであった。素晴らしい国アメリカ、想像以上に大きな国アメリカ。それは夢の世界であり、また夢の実現の瞬間でもあった。喜びと感動のあの一瞬は人生上、決して忘れられない。

 人間が夢を持つことの意味、それは完全燃焼する帰結までの足取りはどんな困難があっても実現した瞬間には、感動が待っている充実した人生観が有ると言うことを意味していると思う。

 若者よ夢を持て、そしてその実現に青春をすべてかけて見ろ。

第3章 教育の大切さ

 私は5人兄弟の末っ子として生まれ、長兄とは14歳、上の姉とは12歳も年齢が違う。戸籍を見ると男3人兄弟なのに5男となっている。家の墓には忠夫、義夫1歳で没すとあった。つまり私の前に双子の兄が未熟児で生まれ亡くなっていた。私はその片割れの生まれ変わりだったのだ。

 私の田舎では当時、大学は町長や町議会議員の息子が行くところと思われており、わが家で大学まで進学させてもらったのは私1人だった。私が大学に行けたのは、英語の成績が良かった私を進学させるように、高校の恩師が両親に進めてくださったからだ。

 ある日両親の「大学はどのくらい金が掛るのだろうか」という話声が襖越しに聞こえ、私は頭をハンマーで殴られたような衝撃を覚えた。「そうか、金が掛るんだ」とつぶやき、ここまで育ててくれた両親にこれ以上迷惑はかけられないと思った。私には渡米するという夢もあり、「よし、自分の力でやってみよう」と心に決めた。

 私の大学生活は勉学と仕事の2本立てで、朝五時に起床して電車で日暮里駅前の薬屋に行き、個人教師をして大学に行った。塾を開き家に帰ってから中学1年から高校三年までを、午後七時から11時まで教えた。その後が自分の勉強時間という毎日だった。

 休日には土方やベルボーイ、中華料理店などあらゆる職種で働いた。おかげで両親には迷惑をかけず、逆に小遣いを送れるようになった。このように大学4年間の勉強を3年間で終え、さらにもう1年勉強したくて専攻科へ進み、古典英語の詩から現代英語の論文を読みまくった。

 私は大学での4年間は、人生の中で決して無駄な時間ではなく、人生の遠回りにもならないと断言する。教育は人間の成長に絶対必要だ。私の母校である獨協大学の創始者で初代学長でもある天野貞祐先生は、「大学とは学問を通じての人間形成の場である」という言葉を残している。

第4章 経営者の任務

 尊敬する3人の先輩がいる。1人目の万玉善隆氏は、私が社長に就任した時の年賀状に「社長とは大きな権限を正しく使って、社員の福祉と社会に貢献するのが勤め」と書いてくれた。

 彼は商売のプロ中のプロで、相場商品を扱っても期間損益では、絶対に赤字を出さない手法はすごかった。商売の暖簾代について私は彼から徹底的に教育されたが、商売の基本や企画立案などは見事なものだった。

 2人目の沢田健三氏は私が「絶対儲かる商売だ」と決済を求めたら、「この商売は1年待て」と却下した。私は「絶対儲かるのになぜだ」と彼に食い下がった。彼の言う通り仕入れと販売に半年ずつかけ、業容や環境の変化を良く調べて商売を始めた。後であの時すぐに商売を始めたら、とんでもない結果になったと知り冷や汗をかいた。

 ある会社が倒産して3億円が焦げ付いたとき、彼は機敏に対応し、結果だけを言うと4億円取り戻した。再建の神様、建て直しの名人と言われた彼からは、「相場での損失は取り戻せるが、不良債権は取り戻せない」と、金の重さをしっかりと教えられた。

 3人目の大江晋氏は新入社員の時から定年まで、毎朝1番に出社した。朝に削った鉛筆の6本が夕方には無くなるほど多くものを書いた。日本語でも英語でも、企画書や立案書を書かせたら彼の右に出る者はなかった。

 平社員にも必ず挨拶するなど、上の人より下の人に気を配って仕事をし、頭が低く笑顔を絶やさず何事にも熱意と情熱を注ぎ込む人だった。歩き回った海外の国の数は数え切れず、流したテレックスの長さは地球何周分もあった。彼ほど創造力に富んだ人は他にいない。

 経営資源の人・物・金・情報・ノウハウに関してこの3人はいずれも一騎当千の強者だった。このような人材がいると会社はどんどん良くなる。「技術は金で買えるが、経営力は金で買えない」が当社創業者の言葉だ。

第5章 企業戦士・総合商社マン(スペシャリスト)

 人生の修練所・研修所となりうる企業は総合商社だ。社員は成績優秀でスポーツマンが多い。これら猛者たちが徹底した研修を受けスーパービジネスマンに育つのだ。

 総合商社は英語の出来ない人、転勤のイヤな人、海外勤務に抵抗のある人には不向きだ。金の臭いのする所ならどこにでも商売を求め、たとえ戦争中の国でも行き、麻薬などの非合法的商品以外は、ラーメンからミサイルまで何でも扱う。

 総合商社はスペシャリスト(商品知識のプロ)の集団で、ラーメンを売る人は30年間、隅々までラーメンを調査研究して商売する。インスタントラーメンの袋を開けた瞬間に鮮度が分かり、麺を噛めば油は何でいつ揚げたか分かる。

 ラーメンのように1個0.2円の利益で数を売りまくる商品もあれば、ヘリコプターや戦闘機は1回の商売で何億もの利益を上げる。

 繊維のプロは触っただけでこのスーツは18万円、これはアオキの1、2万円の背広とわかる。Tシャツは原糸をインドで仕入れ、中国で縫製し韓国や台湾、アメリカで販売する。

 繊維貿易部に日本の勤務地はなく、必ず海外の支店・出張所で働く。野球の人工芝、手術の縫合糸やイラン、イラクなどの中近東の女性が顔を隠す布まで売りに行く。

 今まで象で運んでいたアフリカの現地人に、トラックを売ったが金が無かった。 すると鉄鋼部のプロは、バーター取引でダイヤモンドと石油で代金を払わせた。

 ベトナム戦争時に先輩が、ベトナムに駐在して木材を日本に輸入したら、木にめり込んでいた銃弾で製材機から火花が出た。銃弾をかいぐって買い付けしてきたのだ。同期の友人が発電所を造るプロジェクトでバングラディシュへ駐在、誤って普通の水を飲み、体をこわして退社した。

 未公開だが総合商社マンの平均寿命が低いのは、海外での交通事故と病気の為と思われている。それでも企業戦士・総合商社マンは、危険を冒して世界の各地域で日本を代表して活躍している。

第6章 企業戦士・総合商社マン(ゼネラリスト)

 企業戦士の武器はいついかなる所でも相手と交信や交渉出来ることだ。そのためには一般的知識を広く持たねばならない。彼らは語学(2~4カ国語、英語は常識)、貿易実務、経理、財務(為替含む)、保険、審査、受渡業務、企業分析力、情報通信に加え、営業力を徹底して研修する。

 商品知識の営業力もあれば、人脈を通じた交際の営業力もある。スカルノ大統領デビ夫人も、総合商社丸紅が送った営業と言われる。商売の為には手段を選ばず政治家でも国家でも、営業成果のためには何でもトライし、手段を選ばない。彼らはこれらを学びゼネラリストになっていく。

 ニューヨークの商社マンに東京への転勤命令が出たら、一週間以内に東京に居なければならない。一般企業では学校や家の処理などで帰国が遅れることがあるが、総合商社では絶対許されない。

 家族同伴の場合は妻も研修を受けて現地に赴任する。隣の家に行くときでも必ず表玄関から行く。裏口から行くと拳銃で撃たれる恐れがあるからだ。夫の出張先は企業秘密だ。木材担当駐在員の妻が「主人はポートランドにいる」と他社の駐在員の妻に教え、良い木材がポートランドにあることを他社に知られた例がある。

 1人で駐在を命じられると買い付け、検品、支払い、船積み、決済、与信管理チェックを一人でやる。ゼネラリストであると同時に、貿易実務に通じていないと輸入は出来ない。

 表に出ない悲劇もある。妻が英語ノイローゼで自殺したり、子供が帰国しても言葉が分からず登校拒否になるなど、多くの例を見てきた。私は家の中では子供に日本語以外使わせなかった。毎日英語で生活してると頭の中が完全にアメリカ人になってしまうからだ。

 商社マンの海外勤務時間は本人の自覚をもって就業時間とするとある。ずるいことをして遊ぶ人間など総合商社にはいないのだ。スペシャリストとゼネラリストの両面を持ち、自分の感情を殺して24時間、商売のためだけに前へ進む真の企業戦士が商社マンだ。

第7章 アメリカの大地

 世界最強で自由を尊重する私の大好きなアメリカを、倫理観に欠ける国だと言う人がいる。確かに道端で抱擁やキスをするなど、だらしなく見える面もあるが、私に言わせれば合理性の成せる業だ。多民族で多くの州が集まった国だが良くまとまっている。ぬるま湯に浸っている日本人には分からないだろうが、愛国心が強く何よりも自由を重んじ、自由のためには戦う国民性だ。

 イラクがクエートに侵攻したとき、人格者のアメリカ人から「家に刃物を持った男が侵入したら、あなたは体を張って家族を守るか」と聞かれ、私は「イエス」と答えた。自由、権利、義務の何たるかを理解しているアメリカ人は、日本が「平和憲法上、クエートを助けに行けない」と言うのを詭弁だと思っている。

 私が算盤を持ってアメリカに駐在したら「それは何?」と聞かれ、日本の古式計算機と説明した。読み上げ算を算盤とアメリカの計算機で競争して算盤が勝ち、「あなたは天才だ」と言われた。

 小学1年生の息子が飛び級で算数だけ3年生になった。3足す3・・・と3が八個あるので息子は即座に24と答え、周りは「どうして?」と驚いた。日本の掛け算には独特の九九があるからだ。外から見て日本の良いところが色々分かった。日本民族は優秀なのだ。

 アメリカでは水泳競技に黒人を出場させない。白人と黒人は同じプールでは泳がないからだ。我々の気付かない世界のあることを知った。

 アメリカは気軽に銃の買える国で、女性用の拳銃が3,000円位で売られているのには驚いた。多民族のせいか、あるいはライフル協会が選挙支援をしているためか。そんなことを思っているときに服部君の事件が起きた。

 服部君は家の番号を間違えた上にハローインの仮装をしていた。その家の主人は晩酌で酔って機嫌が悪かった。アメリカで止まれはストップではなくフリーズと言うが、服部君にはプリーズと聞こえたため前に進んだ。

 このように幾つもの悪い条件が重なり、服部君が拳銃で撃たれるという悲劇が起きてしまった。

第8章 アメリカの大地について

 子供が風邪で熱を出したので医者に行った。アメリカの医者はまず「お支払いは?」と聞く。患者が診察代を払えるかを調べ、保険証を確認してから診察する。医者が子供を氷水につけているので「何をしているのか」と聞くと、「熱があるから冷やしている」と答えた。日本では暖かくするのが常識だが、アメリカでは全く逆だった。

 中学校の英語の授業でRとLの発音の違いに多くの時間を使うと聞く。RICEは米で、LICEはシラミだ。帰国したばかりの小学3年の娘は英語のウサギを「ウラビ」と書き、他の子供たちは「ラビット」と書いた。「ラビット」はアメリカ人にはウサギには聞こえないが「ウラビ」はウサギに聞こえる。これがRの発音だ。私ならRとLの発音を30分もあれば教えられる。BとVも同様だ。私はいつも若者に英語を教えたいという気持ちを持っている。

 近所の高校生ボブ君に芝刈りを頼み、彼は4時間で仕事を終えた。アルバイト代として20ドル渡すと、夕方彼の母親から「私の子供をだめにする気か」と文句を言われた。20ドルは多過ぎ5ドルで十分というのだ。アメリカの母親の厳しい子供教育に関心した。

 高速道路を時速160キロで走っていた。路上に何か見えたので急停車すると、鴨の親子が横断していた。後続の運転手は急ブレーキに文句を言ったが、鴨の横断を見て「日本人よ、良いことをした」とほめた。

 私が帰国するとき、空港にはアメリカの友人約100人が見送りにきて口々に「I miss you」と言った。「またね」、「元気でね」「忘れないよ」、「さようなら」の意味だ。

 私の愛する最強の国アメリカ。私はこの大地に向かって「Good by。so long」、「さよなら」と大声で叫んだ。アメリカ生活で心の通う友人も出来、商売もうまくいった。離れ難く涙が止まらなかった。このときの友人たちとは今でも親交があり、私の一生の宝、忘れられない思い出となっている。

第9章 70万円払えなかった男

 総合商社1年目の私の配属は受け渡し部。物流をチェックし納品管理をする部署だった。張り切りボーイだった私は、上司から長い間入金していない会社から70万円を回収するという、難しい仕事を言いつかった。

 相手の会社の電話は居留守でつながらず、何回訪問しても社長に会えないという。私は相手が何か問題を抱えており、社長と会うことが先決と考えた。刑事のようにその会社の前で張り込み、社長をつかまえた。

 私は社長の立場を考慮して近くの喫茶店に連れて行き、「Sさん、この70万円払えるの?払えないの?」と単刀直入に聞いた。彼は「今すぐは払えない」と答え、支払い時期を巡り押し問答が続いた。「どうしても払えないというなら、当社は最終結論を出します」と私は言い切り、重苦しい空気が漂った。

 この社長の生い立ちや前の会社の倒産、生まれ故郷の新潟にまで話が及ぶに連れ、私は何とかこの社長を救えないかと考えた。不良債権として処理したら二度と当社と取引出来ないのだ。

 「今月と来月に30万円、次に10万円の3ヵ月なら払えるか」と聞くと、彼は「それなら何とかなる」と答えた。会社に戻り報告すると、不良債権処理する覚悟だった上司は、あっさりこれを了承した。Sさんは約束通り支払いを終え、これまでがうそのように次から次へと取引が続いた。

 当社との取引が軌道に乗ったうえ、三菱や丸紅とも取引が決まるなど、彼の幸運は続いた。日本のシェアの6、7割を押さえ、年収2億円にもなった。私と2人でインスタントラーメンを食べた彼が、ポケットマネーで200万円も持ち歩くほどになった。彼は今でもその時のことを良く覚えていてくれる。

 人生のどん底を見、崖っぷちに立たされたSさん。生意気な若造に発憤し、死にものぐるいで働いたSさん。人と人との魂の触れ合いや命を懸けた復活劇は、今風で言えばプロジェクトXだった。

 彼は「年取ったら新潟に戻り、故郷の糸魚川を見ながら余生を送りたい」と言っていた。

第10章 商売は国境を越えて

 アメリカ人であれ日本人であれ、商売に国境はなく、世界の人たちは皆兄弟だ。私がこれまでアメリカ人と商売し、感じたことを次に述べよう。

 私が入社3年目の名古屋に、世界一のアメリカの木材会社からジム・メイソンがセールスマネージャーとして市場調査と検品に来た。私は初来日の彼のために英語で熱心に説明した。彼は私を「熱いハートを持つ商社マン」と評した。

 人との出会いは最初が肝心だ。まじめに一生懸命に接すれば、肌の色は違っても心は必ず通じる。このようにして私のニックネーム「ライオン」は、アメリカ人にも覚えられるようになった。

 もう1人のアメリカの友人ジム・パスカルは、人格者で包容力もあり相手の心を読める男だ。

 あるとき、私は丸太を単価375ドルで約50億円買い付けた。山から木材が届くまでにかなりの時間を要し、この間にアメリカの丸太価格が急騰し、595ドルにもなった。日本の本部は驚いて450ドルまで買い値を上げても良いと言ってきた。

 これを彼に伝えると、「契約は契約だ。たまたま今は当たったが、逆の場合もある。儲けは金庫にしまっておきなさい」と言って、涼しい顔で微笑んだ。彼からは商売の厳しさを教えられた。

 彼とは納得するまでとことんやり合った仲で、「あうんの呼吸」はアメリカ人との間にも存在する。細君との待ち合わせに遅れたジムをかばって、「私が引き留めたから」と謝った。彼女はその場はだまされたふりをしてくれ、後で「今度はもっと上手なうそをつきなさい」とたしなめた。日本人より細かな気配り優しさを持つアメリカ人もいるのだ。心と心を通じ魂と魂が触れ合い、同じテーマで悩み合って真の友情は生まれる。商売を越え、アメリカ国歌と君が代をこの友と歌ったこともあった。国を愛し任務遂行に命がけで戦う、ナイスビジネスマンだった。

 精神や商売に国境は無い。お互いに「おにぎり」と「ハンバーグ」を食べ合い、1番大切な心や精神を分かち合った。

第11章 発想の転換・国鉄時代

 旧国鉄時代の手荷物や小荷物は1番の不採算部門だった。しかし民営化してJRになり宅急便と名前を変えたら儲かった。吉野家は牛丼の値段を下げることで、顧客を確保し利益をあげた。逆にマクドナルドは値段を下げたら赤字に転落した。

 長岡で最初に携帯電話を取り入れた会社は倒産したが、今では携帯電話を使わない会社はない。若者は新幹線の切符を駅ではなく金券ショップで安く買う。二酸化窒素をだす元凶の第一は車だが、その次がなんとコンビニだ。24時間照明のためで、田中長野県知事は営業時間の短縮を迫ったという。

 私は時流をよく見て世間を把握し物事を基本から考える人、今までと違う角度から新しい発想をする人、未来・将来を語る人など、創造力のある人が好きだ。創造=初めて作り出すこと=が発想の転換につながる。
(1)皮つき丸太の皮をむいて日本に輸出した(2)アメリカ西海岸は原木の輸出港が決まっていたが、新しい積み出し港を考えた(3)日本向けの丸太だけを買い付け輸出していたが、中国や韓国、アメリカの製材工場にも輸出した(4)自社ブランドを造った。(5)山の中の道は1メートル作るのに1億円かかるので、道を造らず伐採材をヘリで運んだ。

 私はこれらすべてを実現した。既成概念に囚われたり、先輩の踏襲しか出来ない人には絶対に思いつかないことだ。勇気を持ち、自分の仕事に愛情と情熱を注がなければ出来ないのだ。

 たとえば、10メートルと12メートルの丸太一組の値段が20ドルとする。これを12メートルの丸太は13ドル、10メートルの丸太は7ドルで買うと言うと、アメリカ人は高く売れる12メートルの丸太だけを集めてくる。

 日本の建築構造材は4メートルが標準だ。10メートルの丸太からは4メートルの丸太が2本取れ2メートルがロスとなるが、12メートルの丸太では3本取れてロスが無い。このアイデアは的を得ていると評価される。簡単に言えばこれだけだが、ここに至るヒントや、きっかけを見逃さないことが大切だ。発明・発見は発想の転換から生まれる。

第12章 人生は1度限り

 昭和49年、大阪で行われた総合商社トーメンの入社式は、黒縁の額に入った15人の写真が並び、マスコミが大勢詰め掛けるという異様な雰囲気だった。写真の15人は私と同期入社するはずの人たちだった。

 グループ企業の内定者を対象の海外研修旅行に、私は最後の学生生活を楽しむつもりで申し込んだ。しかし、家庭教師をしている子供の母親から「試験が近く大事な時期なので、研修旅行を取りやめてほしい」と依頼され、渋々キャンセルした。

 この研修旅行にはメインバンクの東海銀行グループ5社から150人(トーメンは15人)が参加。ところが搭乗した飛行機がフランス・パリ近くで墜落し全員死亡する大惨事になった。入社前の事故のため準社葬として葬儀が行われた。

 母は私に「亡くなった友人たちがお前を守ってくれるから、この人たちの分まで人生を頑張らなければ駄目よ」と言われた。私の田舎の仏壇には今も15人の名前が並んでいる。そして私を守っていてくれる。

 入社後は朝五時起きで出社し勉強会に出席、人の3倍も肉を食べて睡眠不足を補うなど、体をいじめる毎日だった。入社2年目に「急性肝炎とオーストリア抗原陽性脂肪肝で30歳まで生きられない」と医者に宣告され、初めて死を意識した。医師の対処が良かったのか、現在54歳だが元気だ。2度目の命拾いだった。そのときから酒はきっぱりやめた。

 シアトル支店長とオレゴン州ポートランドまで飛行機に乗った。空港でビールを飲んだ支店長は機内で眠り始めた。到着まであと50分という時に飛行機火災が発生し、機内に煙が入ってきた。支店長を起こそうかと迷ったが、墜落するなら眠ったままの方が良いと思い起こさなかった。飛行機は何とかシアトル空港に引き返し着陸出来た。

 支店長が目を覚まし飛行機を消防車や救急車が取り囲んでいるのを見て、「なんだこれは」とびっくりした。だれもが爆発が怖く動けなかったが、私は煙の中を先頭を切って飛行機から降りた。3度目の命拾いだった。

最終章 人生百転び百一起き

 最初はこの原稿を匿名で書くつもりでしたが、題字は自筆で会社名まで入り、好き勝手を書かせて頂きました。長岡新聞に感謝するとともに、読者の皆さんから暖かいご声援を頂き、誠にありがとうございました。

 私は、田舎出の少年がある出来事で人生感が変わり、夢がどんどん大きくなって生き生きとした人生を送ることが出来たことや、若者の無限の可能性、若さほど強いものは無いことを若者たちに伝えたかった。

 若者たちには、生きることへの執着をしっかりと持って頂きたいと願っている。

 人生は「筋書きの無いドラマ」であり、そのドラマは自分で作っていかなければならない。この原稿は仕事を終えて夜遅く書いたが、反響の大きさにびっくりしている。自分が企業戦士であることは捨てきれず、飽くなき挑戦を通じて残りの人生を一歩一歩踏み締めていくつもりだ。人に学び、創造力を高め、たゆまぬ努力をして、最後に息を引き取るときに静かに「グットバイ」が言えるようにと願っている。

 若者よ立ち上がれ!若者よ小さい事にくよくよするな!若者よ世界へ飛び出せ!若者よ限りない可能性を追い求めよ!

 私はベンジャミン・フランクリンの、「今日出来ることを明日まで延ばすな」という言葉が好きだ。自分に絶えず10倍のノルマを課し、とことん突き詰めて考える精神力を養えば、人生におけるどんな難局も必ず突破出来ると確信している。

 書きたいことや、伝えたいことはたくさんありますが、際限が無いので今回で筆を置くこととしました。人生は「七転び八起き」と言いますが、長い人生を考えると私は「百転び百一起き」だと思います。

 今後とも、どこかでお会いした時には私への御指導ご鞭撻を御願いしながら、ここに完結とさせて頂きます。長い間ありがとうございました。

 「SEE YOU AGAIN SOMEDAY またお会いしましょう。GOOD LUCK 幸運あれ」。